「勉強が好き」・「勉強が楽しい」と感じられるということは、一般的にはとてもいいことだと評価されています。これに対し、「勉強は嫌い」・「勉強は面白くない」ということは、あまり好ましいことだとは考えられず、勉強や受験に対して消極的であるときの言い訳として用いられたりしています。
しかしながら、「勉強が好き」・「勉強が楽しい」というのは、本当に素晴らしいことのなのかと言えば、必ずしもそうとばかりは言えないのではないかと考えます。
まず「勉強が好き」・「勉強が楽しい」と言っているお子様が、本当に勉強が好きなのかどうか。「勉強が好き」・「勉強が楽しい」と言ってはいても、単に「問題を解けるのが気持ちいい」・「できることをするのが好き」・「勉強ができることを周囲に認めてもらえるのが嬉しい」というだけで、「解けない問題」や「できないこと」に出会った瞬間に、「好き」とか「楽しい」という感情がどこかに消えてしまうということもあります。経験上、「勉強が好き」と言っていたお子様が、勉強があるレベルに達した段階で思うように進まなくなり、「勉強は嫌い」と言い出すことはけっして珍しくありません。
では、「勉強が嫌い」・「面白くない」というのが悪いことかといえば、必ずしも悪いことではありません。
生きていると「嫌い」でもやらなければいけないことというのは、いくらでもあります。小さい時、歯を磨くことや髪を洗うことをいやがるお子様は少なからずいます。
しかし、いやだからと言って「じゃあ、やらなくていいよ」ということにはなりません。保護者の方は歯を磨くこと、髪を洗うことを強制し、結果として多くの場合、お子様は当たり前のこととして歯を磨いたり、髪を洗ったりするようになります。「歯を磨くこと」・「髪を洗うこと」が嫌いであったということに、何か問題があるかと言えば、その行動を身につけたのであれば、全く問題ではありません。むしろ、最初から「歯を磨くことが面白い」・「髪を洗うことが好き」という子がいたとしたら、世話をしている大人としては手がかからないのでありがたいかもしれませんが、どうせみな歯を磨き、髪を洗うようになるのですから、「歯磨き好き」・「洗髪好き」が特別に価値のあることでないのは明らかです。
「勉強」はある段階までは嫌いであろうが、面白くなかろうが、「やらなければいけないこと」であると考えます。嫌いだからといって、子どもが四則計算や文章の読み書きができないまま大人になってよいかと言えば、大部分の大人はそうは考えないはずです。いや、むしろ「やらなければいけないことをやる」という行動原理を身につけること自体が「やらなければいけないこと」なのではないかと思います。「勉強がきらい」・「苦手」ということを理由に勉強に対して消極的になることを正当化してしまうことは、「やらなければいけないこと」を身につけるチャンスを逃してしまう、非常にもったいないことなのではないかと思います。