ONEではある時期が来るまで、いわゆる「読解問題」を解くことをほとんどしません。「読解問題」を解くことには、リスクがあると考えているからです。この点について、述べさせていただきます。
われわれが活字メディア(新聞・本・雑誌)に書かれた文章を読む目的は二つです。一つは「味わうため」、そしてもう一つは「知るため」です。
「味わうために読む」というのは、主に小説などの文学作品を読むということです。マンガを読むのもここに入れてもいいかもしれません。読書好きの小中学生が読んでいる本の大半は小説(物語)です。趣味や娯楽としての読書は「味わうため」に行われています。
「知るために読む」というのは、上記以外の「読む」という行為です。たとえば、「観葉植物の育て方」とか「将棋入門」といったいわゆる実用書は、その本を通じて何かしら知識や知恵を獲得しようと思って読まれるものです。教養書はもちろんのこと、ノウハウ本やビジネス書など、みな新しい知見を得ようという目的で読まれるものです。実は小説についても、そこから何事かを学ぶということがあるのであれば、「味わうため」の読書でありつつ、「知るため」の読書にもなります。
では、国語の授業で扱われる文章はどうでしょう。
小説であれば「味わうため」、論説であれば「知るため」に書かれたものであるはずなのですが、残念ながら「味わう」ことも「知る」こともできていないケースが多いのではないでしょうか。
文章を読む目的が「設問を解く」ことになってしまい、設問を解く手がかりとしてしか文章を読まないということになっているとしたら、それは「読む」というよりは「調べる」という行為だと言っていいでしょう。内容を楽しむこともできなければ、その文章を通じて新しい知見を得ることもできません。
いや、正確に言えば、もともとそういう読み方が身についていて、普段から活字に親しんでいる生徒は「味わう」ことも「知る」こともできるのですが、そうでない生徒にとっては「読む」という行為の本質からは遠く離れた作業になってしまいがちです。読んでからしばらくしたら、文章の内容などきれいさっぱり忘れてしまうのです。
これは非常にもったいないことだと思います。実は「味わうため」・「知るため」に読むということを授業の中で毎回しっかりと行えていれば、結構な数の本を読んだことと同じになります。以前に「文章は知識があるから読める」ということを記事に書いたことがあります。「知るため」・「味わうため」に多くの文章を読み、そこからたくさんの知見を得たり、さまざまな感情体験をすることは、別の文章を読むときの土台になっていきます。
味わうために読む、知るために読む……という姿勢ができている生徒にとっては、多少の練習を積めば、読解問題を解くことは困難ではありません。低学年、4年生のころから読解演習を解くことをメインに国語学習をしているが、一向にできるようにならないという場合は、ただ「知るため」・「味わうため」に文章を読むということができていない可能性があります。
先日、ONEの小学部卒業の私立中生が「ONEで読んだ文章はよく覚えている。前の塾で扱った文章は、全然覚えていない」と言っていました。なぜそうなるのかと言えば、文章を設問のついた状態で「解くため」に読んだのか、設問がない状態で「味わうため」・「知るため」に読んだのか、という違いが大きいのではないでしょうか。
もちろん受験が近づく6年生のある時期からは読解問題の練習は行いますが、それまでは「味わうため」に読む、「知るため」に読むということをできるように、あえて設問を解かないという指導を行っております。