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中学部国語 授業報告

以下は高校受験において出典として取り上げられた、内田樹さんの文章の一部抜粋です。

 

「多重人格」は今アメリカで患者数数十万という。とんでもない「流行病」である。これを「幼児期の虐待」によって説明するのが今の「定説」である。療法は、抑圧された幼児記憶を再生させて、否定された自己をよみがえらせ、多重化した人格を統合することをめざす。
 これは「自己とは何か」という問題について、危険な予断を含んでいると私は思う。最終的に人格はひとつに統合されるべきである、という治療の前提を私は疑っているからである。「人格はひとつ」なんて、誰が決めたのだ。
 私はパーソナリティの発達過程とは、人格の多重化のプロセスである、というふうに考えている。
 幼児にとって世界は未分化の混沌である。幼児にとって世界との接点はもっぱら粘膜(唇など)であり、その対象は人間であれ、植物であれ、「快不快」を軸に分類されている。もう少し大きくなると、ある人間と別の人間では、メッセージに対する受容感度が異なることに気づくようになる。コミュニケーションをうまくすすめるためには、相手が変わるごとに、発声法や、言葉遣いや、トーンや、語彙を変えるほうがいい、ということを学習する。たとえば、母親に向かって語りかける言葉と、父親に向かって語りかける言葉は、別のものに分化しそれぞれ発達してゆく。
 コミュニケーションの語法を変えるということは、いわば「別人格を演じる」ということである。相手と自分との社会的関係、親疎、権力位階、価値観の親和と反発……それは人間が二人向き合うごとに違う。その場合ごとの一回的で特殊な関係を私たちはそのつど構築しなければならない。
場面が変わるごとにその場にふさわしいコミュニケーションをとれるひとのことを、私たちは「大人」と呼んできた。そのような場面ごとの人格の使い分けをかつては「融通無碍」と称した。それが「成熟」という家庭の到達目標のひとつであったはずである。
 しかるに、近代のある段階で、このような「別人格の使い分け」は「面従腹背」とか「裏表のある人間」とかいう否定的な評価を受けるようになった。単一で純粋な「統一された人格」を全部の場面で、つねに貫徹することが望ましい生き方である、ということが、いつのまにか支配的なイデオロギーとなったのである。
「本当の自分を探す」・「自己実現」というような表現は、その背後に、場面ごとにばらばらである自分を統括する中枢的な自我がなければならないという、予断を隠している。その予断ゆえに、いま私たちの社会は、どのような局面でも、単一の語法でしかコミュニケーションできない人々、相手の周波数に合わせて「チューニングする」能力がなく、固定周波数しか受発信をすることができない、情報感度のきわめて低い知性を大量に生み出している。
 社会集団は「同質的で、単一で、純粋であるべきだ」という危険なイデオロギーを声高に批判する人々がなぜ「自我は同質的で、単一で、純粋であるべきだ」という近代の自我論を放置し、しばしば擁護する側にまわるのか、私にはうまく理解できない。

 

平均的な中学生が日常的にこのレベルの文章を読むかと言えば、まずそのようなことはないでしょう。しかし、受験で出題されるからには、このような内容の文章でも概要を把握できなければなりません。

このレベルの文章を理解できるようになるためには、文章を読むための土台となる知識や教養を身につけることが必要です。上記の文を読むのであれば、「自我」・「アイデンティティ」といったものについての一定の知識・教養を身につけておくことが必要です。

本日の授業から、「自己・自我」をテーマにした文章を扱い始めましたが、いきなり上記のような文章を読むようなことはしません。まずは、「自我」とか「アイデンティティ」といった言葉の一般的な意味について説明をし、これらについてどんなことが話題になるかといったことを話しました。その後、このテーマに関する知識・教養を身につけるための文章を読んでもらいました。一部だけ抜粋して引用します。

 

 現代人、特に若者にとって「自分とは何か?」という問題は重大な関心事らしい。「自分探し」なんていう言葉を聞いたことがあるかもしれないが、「自分は何のために生きているのか?」・「自分にはどんな仕事が向いているのか?」・「自分はこの社会に対して何をなすべきなのか?」などということで思い悩む者も少なくない。ひょっとすると皆さんもそうかもしれない。
 今、日本中にニートと呼ばれる、就職しているわけでも学校に通っているわけでも職業訓練をしているわけでもない、要するに親の脛をかじっているだけの若者が六十万人以上もいると言われている。こんなにもニートが増えてしまった原因は不況の影響が大であることは間違いないが、しかしそれだけでない。「自分に合った仕事が見つからない」というような理由で就職をせずにいる人間も少なくないのだ。また、一旦就職したものの、自分に合わないといってすぐに会社を辞めてしまい、その後にニート生活……という者も増えているようだ。ニートの増加には、「自分が何者か」・「何をなすべきか」ということが見えていないことから、大人の職業人として生きていくことができずにいるという側面が間違いなく存在している。
 実はこのような現象は、近代より前の時代には起こりえなかった。たとえば、江戸時代のことを考えてみよう。自分の職業は、この世に生まれ落ちたときから決定していたのだ。百姓の家に生まれたなら、もう百姓として生きていくことが決定していたのである。これを「かわいそう」と判断するのは、現代人の傲慢だ。親の職業を継ぐことが当たり前の時代だったのだから、大半の人間はそれに疑問を抱くこともなかった。「あーあ、俺も武士に生まれたかったな~」などと考えるということは、起こらなかったのである。
 生まれながらにして、「自分が何者であるか」・「どう生きるか」が決定しているわけだから、自分探しで悩む必要などなかったわけで、その意味では幸せだったと言えなくもない。
 前近代においては「自分の生き方」はあらかじめ決められていた。たとえば国家とか、共同体とか、王様とか、殿様とかによって。ところが、近代になって、国家とか、王様とか、殿様とかなどから「自立した個人」というものが誕生した。「自立した個人」は、自分の生き方について他からの干渉を受けない。自分のことは自分で決められるのである。
「自分のことは自分で決めなさい」と言われたことは、君たちにもあるのではないだろうか。「自分のことは自分で決めるべき」というのが「自分」というものについての、近代の常識だ。多くの現代人もこの常識を信じている。しかし、「自分のことを自分で決めよう」として「決められない」というのが、現代人にとっての問題になってきているわけだ。

 

最初に引用したものに比べると、かなり読みやすい文章です。もちろん、この文章の中にもそう簡単ではない部分はあります。「近代」という言葉はある一定の厚みをもった理解をしていなければいけない言葉ですが、初学の中学生がその理解を共有できているということはないでしょうし、「傲慢」というおそらく読めない(意味も分からないかもしれません)漢字も使われています。このような読む上で支障になりそうなことについてはあらかじめ説明し、その上で文章を読んでもらいました。読み終えた後に、本文を見ない状態で「前近代と近代以後では『自分のあり方』はどのように変わりましたか。自分が理解したことを答えなさい。」という問題に答えてもらったのですが、しっかりと記述できていました。繰り返しこの文章を読み、ここに書かれたと知識や物の見方を自分の中に取り入れる。そして、次はそれを土台にして一段階上のレベルの文章を読んでいく。これを繰り返し、最終的に冒頭に引用した文章のレベルに到達するということが目標です。

高校受験において出題される文章のテーマは多岐に及びますが、頻出のテーマについては以上のような形で読解の前提になる知識・教養を身につけてもらっています。

 

 

 

 

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