本日は、現在、土曜日に行っている中学生の国語の授業について書かせていただきます。
中学部の国語では、高校受験レベルの文章の内容を的確に把握できるようになることが最大の目標です。そのために授業で行っていることについて、述べたいと思います。
最初に一つ、実際の高校入試で取り上げられた文章を引用します。かなり難易度の高い文章ですが、私立の上位校ではこういった文章が当たり前のように出題されます。
①
「多重人格」は今アメリカで患者数数十万という。とんでもない「流行病」である。これを「幼児期の虐待」によって説明するのが今の「定説」である。療法は、抑圧された幼児記憶を再生させて、否定された自己をよみがえらせ、多重化した人格を統合することをめざす。
これは「自己とは何か」という問題について、危険な予断を含んでいると私は思う。最終的に人格はひとつに統合されるべきである、という治療の前提を私は疑っているからである。「人格はひとつ」なんて、誰が決めたのだ。
私はパーソナリティの発達過程とは、人格の多重化のプロセスである、というふうに考えている。
幼児にとって世界は未分化の混沌である。幼児にとって世界との接点はもっぱら粘膜(唇など)であり、その対象は人間であれ、植物であれ、「快不快」を軸に分類されている。もう少し大きくなると、ある人間と別の人間では、メッセージに対する受容感度が異なることに気づくようになる。コミュニケーションをうまくすすめるためには、相手が変わるごとに、発声法や、言葉遣いや、トーンや、語彙を変えるほうがいい、ということを学習する。たとえば、母親に向かって語りかける言葉と、父親に向かって語りかける言葉は、別のものに分化しそれぞれ発達してゆく。
(内田樹『「おじさん」的思考 (角川文庫) 』より)
今どきの普通の中学生が読むであろう文章とはレベルが乖離しています。平均的な中学生だと、この文章を一読して概要を正しく把握するということは難しいでしょう。
では、どうすれば読めるようになるのでしょうか。文章を読む能力が著しく欠けている小・中学生というのは、実はさほど多くはありません。平易な文章なら、概要を正しく把握できる生徒がほとんどです。
たとえば次の文章の程度のものであれば、たいていの中学生は意味がわからないなどということはありません。
②
「本は図書館で借りる」という人は少なくない。本というものは結構高いものなので、たくさん本を読む人にとっては毎月の本代は結構な出費になる。そこで、できるだけ本は買わずに図書館で借りるというわけだ。お金をかけずに読書を楽しめるのだから、とてもいいことのように思えるが、私はあえて「本は自分のお金で買うべきものだ」と主張したい。
高いお金を出して本を買おうとすれば、くだらない本は選ばず、価値のある本をしっかり選ぼうとするだろう。だから良い本にめぐりあえる可能性が高くなる。ただで借りられるとなると、どうしてもいい加減に本を選んでしまい、その結果、くだらない本を読むことになるかもしれない。
また、本を読んでいてよく意味がわからないとなったときに、借りた本なら「まあ、いいや」ということになってしまう可能性が高いが、自分がお金を出して買った本であれば、何としても理解してやろうと必死になるだろう。
要するにお金を出して本を買うからこそ、良い本を選び、必死になってそこから何かを学ぼうとするのである。
最初に引用した文章①と後に引用した文章②では、何が違うかと言えば、筆者によって想定された読者層です。
後者はごく普通の小学校高学年ぐらいを対象に書かれた文章ですが、前者は大学生以上の年齢で、しかも哲学や現代思想にある程度興味を持っているような人を想定して書かれています。
文章は、筆者が想定した読者と同レベルの前提知識がなければ、理解することはできません。今回引用した内田樹氏の文章は、豊かな言語知識と、「自己」・「アイデンティティ」といったテーマに関する一定の知識・教養を持っていないと読めません。
文章読解が苦手だと言っている中学生のほとんどは知識不足です。補強しなければならないポイントは多くの場合、知識や教養です。受験で取り扱われる文章の頻出テーマについて、一定レベルの知識・教養を持っておく必要があります。
授業においては、テーマごとに最低限必要な知識・教養について説明した後、その知識を使って読める基本的な文章を読んでもらいます。一回読むだけではなく、繰り返し読み、基本的な知識を確認するとともに、文章に書かれた内容自体を新たな知識・教養として身につけていってもらいます。そして、そこで身につけた知識や教養を使って、次は一段階上のレベルの文章を読み、そこでまた新たなる知見を獲得していってもらう……ということを繰り返し、徐々にレベルアップを図っていきます。
先に引用した①の文章も次に引用する文章をあらかじめ読んで、その内容を自分の知識・教養として身につけていれば、全く読めないなどということはないと思われます。
幼児は快適なときは笑い、不快なときは泣く。幼児期の子どもの行動を決定しているのは、自分の心地良さだけである。おもちゃ屋の前で子どもが「買ってー、買ってー」と泣き叫ぶのは、「ここで自分が泣けば、親は困って、しぶしぶ買ってくれるだろう」などと計算しているわけではなく、単に買ってもらえないことが不快だからでしかない。
しかし、もう少し成長すると、いろんなことがわかってくる。「お母さんは泣けば、おもちゃを買ってくれるが、お父さんの前で泣くと、叩かれたり、どなられたりする。じゃあ、お父さんの前ではこの泣き落とし作戦はダメだな」などということを考えられるようになるのだ。つまり、この段階で子どもは相手によって態度を変えるということ、相手によって「人格を使い分ける」ということをできるようになったのである。これをちょっと難しくいうと「人格の多重化」と呼ぶことができる。